2022.9.4

「信望愛主」

テーマ「アブラハムの子孫たち」

聖書 ヘブル 11章11〜12節、創世記 21章1〜14節

 

「信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさった方は真実であると信じていたからである。このようにして一人の死んだと同様な人から、天の星のように、海辺の数えがたい砂のように、おびただしい人が生まれてきたのである。」(ヘブル11: 11、12)

アブラハムの信仰とは一言で言えば、「神に従い神と共に歩む」ということでした。

創世記17章で、99歳のアブラハムに主は再度語られました、「私は全能の神である。あなたは私の前に歩み、全きものであれ。私はあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう」(17: 1.2)と、イサク誕生を約束しました。

しかしアブラハムが求めたものは、息子イサクの誕生であったのだろうか?そうではなく「神との合一」でした。

パウロはローマ人の手紙で、「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。」(ローマ4: 17、18)と言っています。すなわちアブラハムもサラも、子供を産むという点においては死人同様であると考えていたのです。ここから子孫が広がるという事は、無から有を生み出すということでした。

さらに「なお、彼の信仰は弱らなかった。彼は神の約束を信仰のゆえに疑うような事はせず、かえって信仰によって強められ栄光を神に帰し、神はその約束されたことをまた成就することができると確信した。」(ローマ4: 19-21)

パウロは新約聖書において、アブラハムの信仰を最も崇高な模範としています。それ故、アブラハムもサラもどんな不可能なことも実現すると信じ抜いたかのように表現しています。しかし創世記の記録を見ると、アブラハムに迷いがあり、サラには不信仰があり、あきらめにも似た動揺があったと思われます。

 

○ただアブラハムの素晴らしさは、神の声を聞いたときに、そのまま受け入れ、信じ、従ったのです。

 

信仰とは弱るものです。挫折があります。失敗もあります。しかしその経験を踏み締めながら段階的に成長していくことができるのです。

○信仰とは自分と悪魔に対して立ち向かう武器です。

初めは全く不可能と思ったことが、祈り続け願い続けている中で、徐々に不可能ではない、しかし困難であるという経験をします。そして時が過ぎてみると不可能と思われたことが可能になったと感謝することがあります。 

 

○聖霊は信仰を強め、勝利を与えてくださいます。

19世紀に英国から中国の奥地に伝道したハドソン・テイラーの名言があります。Impossible 不可能difficult 困難but しかしdone完了した。

米国の大伝道者チャールズ・フィニーは、「勝利ある祈りは、執拗な祈りでなければなりません。」と言いました。1度あるいは2度祈って、忘れてしまうような祈りは結実しません。アブラハムの信仰は、神に従い続ける歩みであり、神の御命令に従いたくなくても、なお信じ続ける執拗な信仰でした。簡単にはあきらめなかったのです。

新約聖書でイエス・キリストが五つのパンと二匹の魚をもって5000人の人々を養った物語(マルコ6:41)がありますね。それはアブラハムが100歳になって与えられたイサクを通して、天の星のように、浜辺の砂のように子孫を増大したことを象徴しているかのようです。

私たちにとっても、一人の人を救いに導くことが、後に何千何万の人々を神の国に導くことになるかもしれません。そして私たちがアブラハムの信仰にならうとき、私たちこそアブラハムの子孫となるのです。

無限大の祝福があなたの上にありますように。

小田 彰