「荒野花咲」「主の断食」
聖書 イザヤ 58章6〜10節 第一ヨハネ 3章26〜24節
イザヤ書58章は「天に届く祈り」と「まことの礼拝」の2つのテーマについて語っています。今日は特に神の御旨にかなった祈りについて、イザヤの言葉に耳を傾けましょう。
「私が選ぶところの断食は、悪の縄をほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどのことではないか。また、飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸のものを見て、これに着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどのことではないか。」(イザヤ58:6、7)
真実な祈りの条件は、
①抑圧された物の解放
②虐待されたものの救済
③隣人への愛の業
その結果、枯れ果てた生活は新しい神の恵みによって潤される。(58:11)
この前段で神に受け入れられない断食祈祷について触れています。
「見よ、あなた方の断食するのは、ただ争いと、いさかいのため、また悪のこぶしをもって人を打つためだ。今日、あなた方のなす断食は、その声を上に聞こえさせるものではない。」(58:4)
今まさにイスラエル軍とハマスとの地上戦が始まろうとしています。双方、それぞれの神に真剣に祈っているはずです。しかしそれはただ相手を倒すための祈りです。預言者イザヤは神の御心を代弁して、そのような祈りは天に届くものではないと言いました。
真の祈りは抑圧されたものを解放し、飢えた者にパンを与えるような兄弟愛の上に成り立つのです。
マルコによる福音書6章35-52節に、1日中、イエス様の説教を聞いていた人々の空腹を見て「彼らにパンを与えなさい」と弟子たちに言いました。そこで、五つのパンと二匹の魚を届けてくれた少年の籠からパンをとって、祝福してそれを裂き、群衆に与えました。いわゆる5000人の給食です。しかしそのようなことが起こったかどうかということ以前に、空腹の者にパンを与える事は、イザヤ書58章における神への祈りの条件であったのです。
イエス様の生き様を目の当たりに見ていたヨハネは、真の信仰の姿を次のように語っています。
「主は私たちのために命を捨ててくださった。それによって、私たちは愛ということを知った。それゆえに、私たちもまた、兄弟のために命を捨てるべきである。子たちよ。私たちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」(第一ヨハネ3:16.18)そのような生き方の結果、
「願い求めるものは、何でもいただけるのである。それは、私たちが神の戒めを守り、御心にかなうことを行っているからである。」(3:22)とあります。
今私たちは世界の平和のために祈っています。パレスチナのハマスとイスラエルとの戦いが、最小限の犠牲で、一刻も早く終わり、和平が成立するようにと願います。しかしどちらが勝利するかではなくて、しえたげられる者の解放と、飢えた者、さすらえる者の為の支援こそ、日本にいる私たちの祈りの条件であるのです。ウクライナの問題も同じです。実際的な行動を通して祈って参りたいと思います。
同時に私たちの日々の生活においても、実際的に神の御胸にかなった行いをする上で、言葉による祈りが天に届きますようにと願うものです。
今日、真実が祈りの秘訣を体得することができますように、その結果、神の祝福を受けることができますようにお祈りいたします。
小田 彰