「荒野花咲」
テーマ「開かれた門」
聖書 イザヤ 45章1〜7節、使徒行伝 3章3〜13節
70年のバビロン捕囚からイスラエル人が解放されるきっかけとなったのが、ペルシャ王クロスの力であったとは、誠に不思議な神のご計画です。巨大帝国アッシリアを滅ぼした新バビロニア帝国のネブカデネザル王は誰も倒すことができない大きな力を持っていました。しかし、彼が死んだ後、BC 556年にナボニドスが王となってから、国は弱体化しました。そこに立ち上がったのがペルシャの王クロス(キュロス)です。
クロス王はユダヤ人の信仰は持っていませんでした。むしろ偶像礼拝者でした。にもかかわらず神は彼を油注がれた者と呼んだのです。
油注ぐの語源はマーシーアハでそこから「メシア」が生まれました。
イスラエル解放のためには、神の手として用いられたのです。なぜそのように用いられたのでしょうか。
①クロス王自身が神を知るため
②イスラエルの救いのため
③全世界が「イスラエルの神が唯一の神」であることを知るため
神のご計画のために、他国の偶像礼拝者が用いられたのです。誠に不思議なことです。神は全世界の神であり、単にユダヤ教徒であるか、あるいはクリスチャンであるかを問わず、神のご計画のために用いることができるお方なのです。
「扉をその前に開かせて、門を閉じさせないと主は言われる」(45: 1)
「私はあなたの名を呼んだ。あなたが私を知らなくても、私はあなたに名を与えた。」(45: 4)
「これは、日の出る方から、また西の方から、人々が私の他に神のないことを知るようになるためである。私は主である、私の他に神はない。」(45: 6)
さて、あなたの人生の門は開かれていますか?自分の進路の事、仕事の事、家庭の問題、これから起こる未来の事についても門は開かれていますか?もしなかなか門が開かず、進むことができない時、この御言葉を心に留めてください。
さて、ヨハネの黙示録3章に7つの教会への手紙のうちの6番目。フィラデルフィアの教会への手紙があります。
「私はあなたのわざを知っている。見よ、私はあなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、私の言葉を守り、私の名を否まなかったからである。」(3: 8)
財力も権力もなかった小さい教会が、ただ信仰によって迫害に耐えたときに「だれも閉じることのできない門」が開かれ、与えられたのです。
私は特に福音を宣べ伝える様々な事業をしようとするときに、一見重く、閉ざされた扉の前に立たされることがあります。しかし、信仰によって進むとき、その門は必ず開かれるのです。
「彼らは第一、第二の衛所を通りすぎて、町に抜ける鉄門のところに来ると、それがひとりでに開いたので、そこを出て、一つの通路に進んだ途端に、み使いが彼を離れ去った」(使徒行伝12: 10)
これはペンテコステの後、伝道をしていたペテロが捕えられて牢屋の中に入れられてしまいました。教会では彼のために熱心に祈っておりましたが、救われる道はありませんでした。夜中に天使が現れ、彼の脇腹をつついて起こし、帯を腰に締めさせ、脱出を図ろうとしましたら、次々と門の扉が開き、町に出る鉄の門が開いて、気がついてみると天使がいなくなっていたと言うのです。
今日私たちの生活の中でも、人々の目や言葉によって、縛られ、不自由な暗闇に落とされることもあります。しかし、神は閉ざされた門を開き、ひとりでに自由になるというような不思議な経験をさせてくださることがあります。
あなたの人生の門は閉ざされていませんか?この世の力によって扉には固い鍵がかかっていませんか?しかし神はその門をお開きになることができるのです。しばしば同じ信仰を持ったものでなくとも、この世の力を持った人を借りてでも、あなたを助けることができるのです。
私はそのような体験を通して今日まで伝道を続けて参りました。そして今直面している課題においても、神が必ず門を開いてくださると確信しているのです。この聖書の神があなたの人生を開いて下さるようにお祈りいたします。
小田 彰