「荒野花咲」
テーマ「とこしえの契約」
聖書 イザヤ 55章1〜7節、ヨハネ 7章37〜39節
イザヤ書40章から55章までを第二イザヤとして扱って参りました。ですから55章はバビロンから解放されるイスラエル民族に対する最後的な神の言葉です。
「さあ渇いているものは、皆水に来たれ。金のないものも来たれ。来て買い求めて食べよ。」(55:1)
70年の捕囚生活から解放されるイスラエルの民に、神は「命の水を飲め」と語りかけます。いよいよ出発が近づくと、バビロンのきらびやかな品物が気になり、そこで味わった酒や楽しみが彼らの心をひきました。あなた方に与える解放は、単なる奴隷からの自由ではなく、魂の満たしと神の民の輝きなのでしょう。それなのに、どうしてバビロンの豊かさに後ろ髪が引かれるのですか?そこでこう言っています。
「なぜあなた方は、糧にもならぬもののために金を費やし、飽きることもできぬももののために労するのか。私によく聞き従え。そうすれば、良いものを食べることができ、最も豊かな食物で自分を楽しませることができる。耳を傾け、私に来て聞け。そうすれば、あなた方は生きることができる。」(55:2.3)
ここで真の食べ物は、神の言葉であると暗示しています。本来、彼らには「とこしえの契約」(サムエル下7:12、13)がダビデを通して与えられていました。それはダビデの末から一人の人が現れ、神の国を確立し、全世界の人々に幸せをもたらすという約束です。あなた方は選ばれた聖なる民族であるにもかかわらず、その大事な神との契約を忘れてしまったのですか?そのような叱責の意味を込めて、
「さぁ、渇いているものは皆水に来たれ」と語りかけられているのです。
この言葉は、主イエス・キリストによって、全人類に語りかけられました。
「誰でも渇く者は、私のところに来て飲むが良い。私を信じるものは、聖書に書いてある通り、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ7:38)
これは明らかに霊的渇きであって、物質的あるいは食物的渇きではありません。まさに現代は人の心が渇いている時代だと言っても過言ではありません。テクノロジーは進み、豊かさも貧しさも、戦争も飢餓も、あらゆる知識が毎日のニュースを満たしていますが、人の心は砂漠のように渇いているのです。情熱的な映画を見ても、魂の渇きは潤される事はありません。それは神の御言葉によって満たされることなくしては、決して潤される事は無いのです。 すなわち聖霊によって与えられる言葉ですね。
イエス様がくださる水を飲むという事は、聖霊に満たされることであり、それはほとばしり出るように、人々を潤し生かすものです。そこに、終末時代の世界の救いがあります。
主なる神は言われる、「見よ、私が飢饉をこの国に送る日が来る。それはパンの飢饉ではない。水に渇くのでもない。主の言葉を聞くことの飢饉である。」(アモス書8:11)
イエス様はまた言われました。
「すべて、重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう。」
(マタイ11:28)
私たちに渇くことのない水が与えられ、重荷に苦しむことのない聖霊の力が与えられているこの救いこそ「とこしえの契約」による祝福なのです。
今週もイエス様に寄り添って、御言葉に耳をそばだてて、祈り続けて参りましょう。祝福をお祈りいたします。
小田 彰