「荒野花咲」
テーマ「我々の神に帰れ」
聖書 イザヤ 55章6〜7節、エレミヤ 29章10〜14節
イザヤ書40章から55章までを第二イザヤとして扱って参りました。締めくくりの55章にバビロンを出るイスラエル民族に対する「悔い改め」のアピールが書かれています。
神の御心は、ただバビロンの奴隷生活から解放されることではなく、不信仰と罪から悔い改めて解放されるようにという願いなのです。
「あなた方は、主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。悪しきものは、その道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼に憐れみを施される。我々の神に帰れ、主はゆたかにゆるしを与えられる。」(イザヤ55:6、7)
ここでは、次のようなメッセージが語られています。
①時が迫っている。神の国が近い。
②主を尋ねよ、呼び求めよ、主に帰れ、我々の神に帰れ。
③赦しとその結果としての祝福があたえられる。
イザヤと同時代にバビロンに捕えられていく人々に預言したエレミヤは次のように語っています。
「あなた方は、私を尋ね求めて私に会う。もしあなた方が一心に私を尋ね求めるならば、私はあなた方に会うと主は言われる。私はあなた方の繁栄を回復し…あなた方を導き帰ろう」と神は言われる。(エレミヤ29:13、14)
④神の臨在の中に共に歩む人生。
⑤繁栄の回復。
⑥故郷へ導き帰る。
キリスト教会のメッセージは「悔い改めなさい」であると言っても過言ではありません。教会建築に、礼拝の形式に、毎週集まる集会の持ち方に「悔い改めへの招き」が表されています。教会建築の本質は、神の偉大さを表現することではなく、ここに集まるならば、赦しと救いがあるというメッセージを語っているのです。それ故、十字架が建てられています。
イザヤ書55章の招きのメッセージを受けてイエス様はこう言われました。
「求めよ、そうすれば与えられるであろう。探せ、そうすれば見出すであろう。門を叩け、そうすれば開けてもらえるであろう。すべて求めるものは得、探す者は見出し、門を叩く者は開けてもらえるからである。」(マタイ7:7、8)
これは単に悔い改めて洗礼を受けようと言っているのではなく、信仰を持ったと思っているものが、本当に神の御心に沿っているか、与えられた使命を果たしているか、イエス・キリストの十字架の愛に答えているか?悔い改めが問われているのではないでしょうか。
心から感謝して聖書が読める時間、そして、祈りの気持ちに高められている時、期待と喜びを持って礼拝に集っている時、困難の中にあっても、神の愛を実感している時、このような時は本当に一生のうちにわずかしかないのではないでしょうか。「あなたが主にお会いすることができるうちに、主を求め、主に祈りましょう」
主の恵みが豊かな一週間でありますようにお祈りいたします。
小田 彰