2023.9.3

「荒野花咲」

テーマ「十字架の奥義」

聖書 イザヤ 53章1〜9節、Ⅰペテロ 2章21〜25節

 

「しかし、彼は我々のとがのために傷つけられ、我々の不義のために砕かれたのだ。彼は自ら懲らしめを受けて、我々に平安を与え、その打たれた傷によって、われわれは癒されたのだ。」(イザヤ53:5)

 

既にお話ししましたように、イザヤ書40章から53章までの間に「主の僕の歌」が4回出て参ります。今日はその第4番目であり、最も重要な言葉であります。イザヤ書研究の中心テーマの心臓部と思われる部分です。主の僕は神より選ばれ、聖霊の油が注がれ、御心を行うために、多くの犠牲を払い、なおかつ真理を全世界に宣べ伝える器であります。

聖書研究者においては、それがイスラエル民族であるという説があります。特にユダヤ教の人たちはそのように読みます。しかしそれだけでは説明のつかない復活と永遠の命に関わる部分が53章の終わりの方に出て参ります。イザヤはきたるべきメシア、イエス・キリストを見ていたと私たちは受け取っています。新約聖書を知る私たちにとって「主の僕はイエス・キリスト」であります。

 

少し神学的表現になりますが、次の4つの点を聖書は私たちに訴えています。

①人間の罪は、神の子の死を必要とするほど深刻なものである。

②神の義は、罪あるものをそのまま受け入れることができないために、身代わりとして独り子イエスの死を必要とするほど厳粛である。

③神の愛は自らの最も尊いものを犠牲としてまで人の魂を救おうとされる。

④神の義と神の愛との発現がキリストの十字架である。

 

ここで私たちは神の愛について気付かされます。しかし、それ故、大きな犠牲を背負わされた「主の僕」の愛についても、目が開かれなければなりません。イザヤ書53章はキリストの愛がどれほど大きなものであったかを示しているのです。

 

その時、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」(ルカ23:34)気づかずに大きな罪を犯しているものに深い愛を注いでくださいました。

 

「さらに、私たちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、私たちの罪をご自分の身に負われた。その傷によってあなた方は癒されたのである。」(第一ペテロ2:24)私たちの罪のために十字架にかかってくださったイエスの愛が示されています。

その意味において、イエスの愛を受け入れることが、神の愛を受け入れることであり、神の救いに預かることなのです。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださって、私たちの罪のために贖いの供え物としてみ子をお遣わしになった。ここに愛がある。」(第一ヨハネ4:10)

 

このたび、世界の国会議員の聖書を通しての交わりであるSmallGroupのアジアの集いに参加いたしました。過去3年間10名ほどの国会議員の皆様に聖書講義をしてきたことがきっかけとなりましたが、私自身が教えられるところが大変多かったのです。

 

エチオピアの首相を経験したタムラッドさんの証を聞きました。共産主義革命を目指して命がけで働いた彼は、それが人を救うものでないことに気がついて反発したことがきっかけで、13年間の獄中生活を強いられました。聖書についても、イエス・キリストについても全く知識はありませんでしたが、獄中で新約聖書を読むようになりました。そしてイエスの愛に目が開かれました。そして、小さな祈りの交わりを始めたのです。そこに、刑務所内で最も恐れられていた殺人鬼と言われる男が入ってきました。誰もがいみ嫌う人物でしたが、タムラッドは祈りの中に示されて「私はあなたを愛しています。それはイエス様があなたを愛しているからです」と繰り返し語りました。数週間後、この男もイエスを受け入れ、愛されていることに感謝を捧げるようになりました。彼も獄中で、周囲の人に「イエスがあなたを愛しています」と伝えました。エチオピアの牢獄がさながら教会のように変わりました。なんと、最高裁が彼の罪を免除し釈放したのです。彼は自分が殺した人々の親族に行って詫びました。そしてどこに行っても「イエスがあなたを愛していますから、私もあなたを愛します」と語りました。今150,000人もの人たちがSmallGroupに加わっていると言われます。それは教会ではなく、また組織や戒律もありません。小さなイエスの愛を受け入れた人たちの交わりです。

「その打たれた傷によって、われわれは、癒されたのだ」という御言葉が現実に人々を変え、社会を変えたことを知りました。

 

改めてイエスの愛が今週あなたの心を照らしますように。そして大きな神のご計画の中で、あなたも「主の僕」として良き証を立てられますようにお祈りいたします。

小田 彰