2024.10.13

「神の奥義なるキリスト」(コロサイ2:1〜5、ローマ16:25〜27)

 

前回隠された奥義としての「内に住むキリスト」についてお話ししました。

「その言葉の奥義は、代々にわたって、この世から隠されていたが、今や、神の聖徒たちに明らかにされたのである。」(コロサイ1:26)

とありますから「奥義とはキリストご自身」と言うことになります。ユダヤ教の指導者であったパウロにおいてもそうですが、私たちにとってはイエス・キリストが全世界の、歴史の中における唯一のメシアであり、私たちの救い主であるという事は隠された真理でした。しかし、今私たちに明らかにされました。これは真に不思議なことであります。

「神は、彼らに異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを知らせようとされたのである。この奥義は、あなた方の内にいますキリストであり、栄光の望みである。」(コロサイ1:27)

 

さて、今日のテキストは「神の奥義なるキリスト」をどのように体験することができるかについて、パウロが語っています。

 

「それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。」(コロサイ2:2)

①御言葉による励ましの力

②クリスチャン同志の愛の絆

③聖霊によって与えられる知恵、理解力

 

イエス・キリストを知るとは、ただ人間イエスを拝むことではありません。御言葉(聖書の預言と記録された言葉)によって知る世界です。また教会の愛の交わりという目に見えない形によって体験します。さらに聖霊による常識を超えた豊かな知識によって初めて知ることができます。

 

コロサイ教会に潜入していたグノーシス派的な哲学知識を優先させる人々に対して、「真の知識とはキリストの中にある」と宣言しています。パウロ自身は、ガマリエルの弟子であり、ユダヤ教の指導者であり、国会議員であり、イエスを十字架にかけた張本人でありましたが、イエス・キリストを知ったときに、自分がいかに無知であるかということに気づいたのです。この世の知識は、膨大であるように見えますが、イエス・キリストのうちに隠されている奥義に比べるならば、真に小さいものなのです。

「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、一切隠されている。」(コロサイ2:3)

 

さて、奥義とは、不思議と言うこともできるでしょう。

①キリストとの不思議な出会い

②罪の赦しと救いという不思議な体験

③キリストと共に生きる不思議な人生

④キリストと苦難を共にしようとする献身の心

真にこれは不思議なことではないでしょうか?

 

毎年お話ししていることではありますが、今年も10月10日を迎えました。1967年、この日新宿をフラフラ歩いて、死に場所を求めていた青年が、淀橋教会に立ち寄ったことによって、キリストと出会ったのです。以来57年間、イエス様と共に歩みました。そして無知な私は少しずつ神の御心の世界に目が開かれて参りました。そしてこの方のために一生を捧げ、苦しみを共にする決断をして、57年になります。これは私の人生における不思議であり、ミステリオンであります。

 

あなたの人生にも、奥義であるキリストが現れてくださり、共に歩んでくださり、一生を価値あるものとしてくださるようにお祈りいたします。

小田 彰