「パウロのペン」(コロサイ4:18、第一コリント16:21〜24)
2024年1年間の御言葉による交わりを感謝いたします。52週目の年末の辞はルターやカルバンという説教者たちは非常に重んじたと言われています。1年の歩みは歴史であり、確かな記録である。その上に立って一言述べることには大変意味があると思われたからです。
今年、私たちはテモテ第二の手紙、ピリピ人への手紙、そしてコロサイ人への手紙を学んで参りました。パウロの獄中書簡です。年頭には「たとえ私たちは不真実であっても、彼は常に真実である」(テモテ第二2:13)から「主之真実」を標語として参りました。
今期はコロサイ人への手紙を通して、キリストの奥義、キリストの内住、キリストの心などパウロの手紙の中で、最も深遠な言葉と思われる部分を学ばせていただきました。
①さて、本日のテーマは4章18節のみです
「パウロ、自身が 手ずからこの挨拶を書く。私が獄に繋がれていることを覚えていて欲しい。恵みがあなた方と共にあるように。」(コロサイ4:18)
パウロは目が悪かったために、手紙を常に誰かに代筆してもらいました。コロサイの手紙はテモテが口述筆記したと思われます。しかし、最後の1節の部分に来て、彼自身がサインをするように「手づからこの挨拶を書く」と言っているのです。それは私たちが最後に朱印を押すように、間違いなく自分の考えであり、私の生命をかけて語るメッセージであるという実存的意味を持っています。
このような書き方は、第一コリント16:21、ガラテヤ6:11、第二テサロニケ3:17、ピレモン19 などでも同様に用いています。
私たちもこの1年の間、信仰者として語り合い、交わりを持ち、またキリストにある共同生活をいたしました。年末にあたり「これは私の真実の言葉です」と述べて、締めくくりたいものです。キリスト者の発言は、常に実存的真実の言葉でなければなりません。
②また、パウロは「私が獄に繋がれていることを覚えていて欲しい」と訴えています。私たちが今日恵みを受けるために、誰かが犠牲となっていることを覚える事は幸いです。初代教会の伝道者たちの犠牲の上に、今日のキリスト教会は立っています。
③また、パウロは祝福の言葉をもって手紙を閉じています。礼拝の最後に牧師が祈る祝祷は第一コリント16:21から来ています。「神の恵みと祝福を祈ること」はなんと素晴らしいクリスチャンの挨拶でしょうか?
年末にあたり、私の心に与えられたイメージは、ドイツの画家、アルブレヒト・デューラー(1471〜1528)の「祈りの手」です。アルブレヒトとハンスはドイツのニュールンベルクで育ちました。二人ともに画家を目指していました。さらにベネチアで学んで一流になりたいと思いましたが、経済的に貧しいために叶いませんでした。ある日ハンスは自分が働いてアルブレヒトを支えるから、自立できるようになったら自分を支えて欲しいと提案しました。アルブレヒトは、ベネチアで、腕を磨き、一流の画家となりました。ハンスは鉄鋼所で働き、送金し続けました。何年も何年も。ある日、アルブレヒトは有名画家として故郷に帰ってきました。ハンスは喜びましたが、その時彼の手はもはや絵筆を握れる手ではなくなりました。ハンスが、自分の部屋で、密かに祈っている声を聞きました。「アルブレヒトが自分を責めることがないように、幸せになってくれるように」と祈っていたのです。アルブレヒトはその節くれだったハンスの手を描き残そうと思いました。1509年のことです。指が硬くなって、手がまっすぐに合いません。ゴツゴツとしたその祈りの手は、今日まで世界の名画として残っています。
私たちのためにイエス・キリストの釘跡のある御手が指し伸べられています。その十字架の苦しみのゆえに、私たちの魂の救いがあるのです。
1年の最後に、見えないところで流された涙と汗と血潮を覚えて感謝するものでありたいと思います。
皆様の上に祝福がありますように。そして良いお年を迎えられますようにお祈りしております。
小田 彰
*自由が丘チャペルでは、1月1日13:30より元日礼拝をいたします。説教題は「イエスの祝福」(マルコ6:41 )です。新年の標語は「祝福無限」です。