「良いわざを始められた方」
(ピリピ1:6、第一コリント3:6〜9)
「そして、あなた方のうちによいわざを始められた方が、キリスト・イエスの日までにそれを完成してくださるに違いないと、確信している。」(ピリピ1:6)
今日のテキストは、この一節のみです。伝道者パウロの信仰と哲学の全ては、この一句の中にあります。
自分の人生に御手を延べ、導き始めてくださった神は、常に共にいて、あらゆる問題を共に解決してくださり、最終ゴールである天国、あるいは「キリスト・イエスの日」まで、導いてくださるという確信です。
彼は今ローマの獄中にいます。自由は剥奪され、広く活動することはできません。しかし、蒔かれた種は成長し、自分のわざではなく、神のわざとして各地で結実しつつあることを確信していました。万一迫害のために命を落とすことがあっても、神は最善に導いてくださり、蒔かれた種を育ててくださるのだという確信を持っていました。
このような信仰を、どこかで彼は深く体験したのだと思います。言葉を変えて言えば「神の臨在体験」と言えるでしょう。
このような確信を持つことができれば、人生の試練において、不安や悩みにおいて、私たちは恐れる事はありません。神が最善を成してくださるからです。
私は4月11日午前3時ごろ、眠りの中で神の言葉のささやきを聞きました。「わが臨在汝と共に行くべし」。
起き上がって、その聖句がどこにあるか聖書を開きました。創世記28章15節に、神がヤコブに語られた言葉であると確信しました。彼は、命を狙う兄エサウの追手を逃れ、荒野を彷徨い、石を枕にして、野宿しようとしていました。夢の中で、天使が天国の階段を上り下りしている姿を見「これは天の門だ。神の家だ」と言ったのです。そしてそのところの名前をベテル神の家と名づけ石に油を注いで祈ったと書かれています。「聖なる畏れ」という経験ですね。ヤコブはこの後、名ををイスラエルと変え、後のイスラエル民族の祖先となります。
「私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにも、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。私は決して、あなたを捨てず、あなたに語ったことを行うであろう」
私が最も長く使っている聖書には、1975年7月1日、神学校の1年を終え、3ヶ月の長い夏休みに入る時、住むところもまたお金もなく、どのように過ごしたら良いかという不安の中で、この御言葉に出会ったことが書かれています。「ヤコブに語られた神は私の人生をどのように導いてくれるだろうか」と結んでいます。ちょうど今から50年前の事でした。ヤコブを導かれた神は私の人生をも導いてくださいました。食べるものにも、住む家にも、なすべき奉仕にも、全ての必要を満たしてくださいました。その御言葉が11日の明け方、再び私の心に迫ってきたのです。
良いわざを始められた方は必ず完成してくださる。今直面しているすべての課題を乗り越えさせてくださるという確信を与えるために、聖書の御言葉が開かれました。
パウロの確信は元より、私に語られた神の御言葉を通し、聖書の神が真実であることを皆様にお伝えいたしたいと思います。真実の神は逆境の時に近づき、御言葉を与え、あらゆる不安と恐れを取り除き、不可能を可能にし、悪魔の攻撃に勝利させ、ついに神の栄光を表してくださるのです。ハレルヤ!
兄弟姉妹の上に、この神の御約束が実現しますようにお祈りいたします。
小田 彰