2024.5.12

「キリストが崇められること」(ピリピ1:19〜21、ガラテヤ2:19〜20)

 

ピリピ人への手紙の中の珠玉の御言葉にどのように向かい合うことができるか問われています。私が最も尊敬する宣教師 B.F.バックストンはこの御言葉を生涯のモットーとしていました。それは私たちクリスチャンがイエス・キリストに対して表現できる最も純粋な言葉であると思います。

「大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、私の身によって、キリストが崇められることである。私にとっては、生きる事はキリストであり、死ぬ事は益である。」(ピリピー1:20、21)

「崇められる」とは「拡大される」(magnified)と言う意味です。2000年前のイエス・キリストの出来事が、私を通して現在の社会で見える形で証されることです。そのためにはいかなる犠牲をもいとわないとパウロは言っています。そのために自分の命を落としたとしてもそれはプラスなのです。

「生きる事はキリスト」と言っています。「生きる事はキリストのため」とは言っていないのです。もう自分の中にキリストが生きておられること、万一殉教することがあっても、内にいますイエス・キリストが死ぬのだということですね。パウロにとって死は天国の入り口でした。

このような高い心境に高められたいものです。

パウロにとって、イエス・キリストと言った時、それは「愛」そのものでした。

母の日に際し、私たちは「愛」について考えさせられます。母の愛がキリストの愛に匹敵するものでしょうか?母が子供のために祈る時、祈りは命がけなのです。祈りはすなわち命を消耗していくのです。祈りは死ぬことと同じですね。そこには奇跡があるでしょう。ただし人間の愛は、自分の子供や家庭や直接関わりのある領域のみに働く愛です。パウロがキリストに対して捧げている愛は全世界の人の救いのためであります。それはイエス・キリストの十字架の愛が全世界のすべての人のためだからです。

イエス・キリストと一つになって生きるものの生き方、目的、喜びについて考えてみましょう。

今日の御言葉があなたに常に信仰の光を見させてくださるように祈っています。

小田 彰