2024.5.19

「生きること死ぬこと(聖霊降臨日礼拝)」(ピリピ1:21-26、第二コリント5:1〜10)

 

今年は5月19日がペンテコステ礼拝です。ペンテコステはもともとユダヤの祭りでしたが、過越の祭りから7週目の日曜日となります。すなわちキリストの復活から50日目となるのです。

聖霊は旧約聖書においては、土で作られたアダムの鼻から吹き込まれた息です。「ルアハ」は息、風、霊などと訳されてきました。アブラハム、モーセ、ヤコブ、ダビデ、イザヤなど偉大な神の器にしばしば強く注がれました。しかし、旧約の預言者の中で最も聖霊を強く強調したのはエゼキエルでしょう。しかし、新約聖書において、ペンテコステの聖霊降臨は、すべての人に注がれる新しい時代を告げました。そしてそれは教会の誕生を意味しました。聖霊はまた教会の中に満ちているものなのです。

聖霊はイエス・キリストが「助け主」として約束してくださいました。また真理を伝えてくださる教師です。信仰が弱ったときの「慰め主」であり、神の御心に従って生きようとする者の力です。イエス様は最後の晩餐で、弟子たちにこう語られました。

「私は父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなた方と共におらせてくださるであろう。それは真理の御霊である。」(ヨハネ14:16、17)

聖霊は真理の御霊なのです。

「誰でも聖霊によらなければイエスは主であるということができない」(第一コリント12:3)とありますから、聖霊の働きなくして私たちの信仰がありえないのです。

ですから、聖霊降臨日は大変に重要な出来事なのです。

しかし、それを火山の爆発のような劇的な事件と捉えるべきではありません。イエス様がベツレヘムで静かに赤ちゃんとしてお生まれになったように、聖霊はエルサレムの2階で祈っていた120名ほどの人々に密かに降ったのです。

弟子たちに、聖霊が降った時、臆病な弟子たちは、街に出て大胆に福音を伝えました。すなわちイエスが私たちの罪のために十字架にかかってくださったことと、3日目に復活されたことの証人となったのです。聖霊は私たちを復活の証人としてくださるのです。

 

さて、今日のテキストは、先週に引き続いてパウロの珠玉の言葉ですが、彼が生きて神の栄光を表すべきか、死んで神に栄光を帰すべきか、迷っている記事があります。この神の御前には何が善であるか、何が悪であるか迷う事は実は聖霊の働きなのです。

「私にとっては生きる事はキリストであり、死ぬ事は益である。しかし、肉体において生きていることが、私にとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだら良いか、私にはわからない。私はこれら2つのものの間に板挟みになっている。」(ピリピ1:21-23)このような葛藤の中に聖霊による真の祈りが生まれるのです。

聖霊は私たちの心の汚れと罪を指摘します。神の御心に従うのか、それとも肉の思いに従うのかという問いかけをします。そして、イエス・キリストの道を示してくださるのです。このような御霊によって歩む生活を通して、私たちが「神の子」であることが証明されます。

 

「我々はイエス・キリストによってのみ、神を知るばかりではなく、またイエス・キリストによってのみ、我々自身を知るのです」とはパスカルの言葉です。このイエス・キリストによって神を知り、また己の姿をはっきりと知る事は、実は聖霊の働きなのです。このような霊的な経験を「聖化の恵」と言います。

ですから、ペンテコステはドラマチックな出来事と言うよりも、一人ひとりの信仰者の心の奥底にひたひたと迫る神の語りかけなのです。

今日、この日に、改めて、聖霊の語りかけに耳を傾け、パラクレートスと言われるお方と共に歩みましょう。それは大きな喜びであり、また大きな力なのです。

神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。

小田 彰