2024.6.2

「心をあわせ」(ピリピ 2章1〜5節、ローマ 15章1〜6節)

 

 「心を合わせ、1つ思いになって」と言うパウロの願いは、ピリピ1:27、2:2、4:2 エペソ4:3、ローマ12:16、15:5.6 などにたびたび出てくる言葉です。

イエス・キリストが十字架で死に復活されたことを宣べ伝えることによってクリスチャンの群れができました。しかし教会という共同体は、まだ成熟していませんでした。知識において、愛において、交わりにおいて、特にキリストの形をこの世に表す一人ひとりの生き方において未完成でした。その最も顕著な例が不一致と分裂でした。パウロはその手紙の中で度々一致についてうめくように語りました。

「そこで、あなた方に、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか、同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、1つ思いになって、私の喜びを満たしてほしい。」( 2:1、2)

1章27節では、一つ心になって迫害者に対して一致して戦って欲しいという趣旨でした。

しかし、2章においては、教会の中におけるリーダーシップの衝突、多分人種や皮膚の色や階級差による分派闘争を意味しているようです。そこには愛のかけらもない人間関係のトラブルが見受けられます。

「何事も党派心や虚栄からするのではなく、へりくだった心を持って、互いに人を自分より優れたものとしなさい。おのおの自分のことばかりではなく、他人のことも考えなさい。」(2:3、4)

このような御言葉は教会であれば常識的なことであるはずなのですが、パウロ先生が口を酸っぱくして言わなければならないような現状があったのでしょう。もちろん教会の中にはユダヤ教の背景を持ってクリスチャンとなったリーダーがいました。ユダヤ至上主義を掲げる人たちもあったでしょう。一方では、ローマ人もいましたし、また奴隷階級の人たちもいたはずです。皮膚の色の違う労働者たちもたくさんいたはずですね。そこにこのような分断が起きてきたのです。

それでは現代の私たちにはそのような分裂は無いのでしょうか。カトリックとプロテスタントの教会分裂。ギリシャ正教における分裂。ウクライナとロシアの教会分裂。そして私たちの現実のレベルにおいても、教会の不一致や分裂はあちらこちらに存在します。

その原因は、イエス・キリストの十字架の贖いに対する感謝の度合いによって起こってきます。福音のためにどのように命をかけるか、その度合いによっても生じるのです。

2000年のキリスト教の歴史においても、たくさんの過ちが犯されましたが、時々出現する神の器たちによって清い信仰が保たれてきました。14世紀には、世界で最もたくさんの人に読まれていた書物と言われた「キリストにならいて」(トマス・ア・ケンピス著)は多くの人の心をイエス・キリストに結びつけ、その信仰と愛のゆえに教会を一致させました。

「イエスには天の御国を愛する多くの者たちがいたが、しかし、十字架を担うものはほとんどいなかった。

イエスには楽しみを願う多くのものがいたが、しかし苦難を望むものはほとんどいなかった。

すべてのものは、イエスと共に喜ぶことを願ったが、しかしイエスのために苦しもうとするものはほとんどいなかった………」

このように、鋭くクリスチャンの偽善を指摘したトマス・ア・ケンピスは教会の中の分裂や闘争を見ていたのです。

 

パウロは、私たちがイエス・キリストに対して持っている愛と忠誠を、兄弟姉妹の交わりの中にも生かしなさいと励ましています。

私たちの教会が真のキリストの共同体として清められ成長することができますように祈りましょう。

「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなた方の間でも、互いに生かしない。」(2:5)

小田 彰