「キリストの憲章」(ピリピ 2章5〜11節、マタイ 26章36〜46節)
ピリピ2:5〜11は「キリストの七重の謙遜」と言われる部分で、大変尊い聖書箇所を前にしています。
ピリピ教会の中の不一致の問題について、パウロは解き進めていましたが、いかにキリストがへりくだってくださり、ついには十字架の死にまで至られたことを思い、兄弟姉妹が謙遜になって、教会の一致を作り出してくれるように願ったのです。
2000年の歴史を振り返って、教会の中には常に虚栄心や党派心や利己主義のために神の交わりが壊されてきた歴史があります。主イエス・キリストのヘリ下りと服従の姿を思い起こさなければ、常に人間集団は分裂させられてしまうものなのです。
①キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、
②かえって己をむなしうして、僕のかたちを取り、
③人間の姿になられた
④その有様は人と異ならず
⑤己を低くして
⑥死に至るまで
⑦ 十字架の死に至るまで従順であられた。
ローマイヤーという研究者によれば、これはパレスチナ地方の初代教会の賛美歌として歌われたものだそうです。もしそうだとすれば、パウロは初代教会のクリスチャンたちが口ずさんでいる賛美歌を用いて、イエス・キリストがいかにへりくだられたか、どれほど深い愛と犠牲を表されたかを思い出させて、兄弟姉妹の和解と一致を生み出そうとしたのでしょう。
キリストの①謙遜②服従③十字架に対して神の祝福は
①すべての名にまさる名「主」「キリスト」を賜り
②天上のもの、地上のもの、地下のもの、すべてのものによって礼拝され
③「イエス・キリストは主である」と告白するためであった。
それによって神に栄光を帰することができるのです。
「謙遜」の語源は、困窮や貧しさや苦難の中で「苦しんでいる」「屈服させられた」状態を表す言葉です。そこから「へりくだった」「心砕かれた」「柔和な」態度を意味する謙遜という言葉が派生したと思われます。イザヤ書53章の主の僕の歌は、最もよくその意味を表しています。そしてイエス・キリストは約束のメシアとして、この謙遜を貫いたお方でした。
今日もなお、キリスト者の歩みは、苦しみに耐え、どこまでもへりくだって奉仕し、その中で柔和と謙遜を身に付けるべきであります。それは大変高い水準の人格が要求されますが、その後に神の恵みによって引き上げられる喜びと、神の栄光を表す道が開けていくのです。
キリスト教信仰の真髄の御言葉ですから、安易に例話を上げることはできません。しかしもしあなたが、クリスチャンとして苦しみを経験し、悩んでいるならば、この御言葉はあなたに勝利の道を示し、栄光の輝きへと導いてくださると信じます。
主、イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりがあなたと共にありますように。
アーメン。
小田 彰