「後のものを忘れ」(ピリピ 3章10〜16節、第一 テモテ 6章12〜19節)
パウロは「ただこの一事を務めている。すなわち後ろのものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞与を得ようと努めているのである」(ピリピリ3:13、14)と言っていますが、それは「キリストを知ること」でありました。
ピリピの教会の中には、多分ユダヤ教の背景を持った一部のリーダーの中に、律法主義的完全主義者がいたのではないかと思われます。それに対して、パウロは、自分自身が教会の創立者であり、初代教会の第一の教師であるが、まだキリストを知ることにおいては、途中であって成長段階にあると言うことを意識していると言っています。「私が既にそれを得たとか、既に完全なものになっているとか言うのではなく…」と言っているからです。
宗教と言うものは、必ずトップリーダーと言われる人が存在し、その人は「誰よりも私が真理を深く知っている」と言う態度をとるものです。しかしパウロは自分が教祖ではなく、すべては救い主イエス・キリストのおかげである。かつては迫害者であったものが、赦されて伝道者とはなっているが、それは看板をもらったとか、後継者である資格をもらったとかと言うようなことではなく、「ただキリストを愛する愛によって行動している」のだと、彼の動機を告白しています。
彼は、指導者としての資格を得て、人々にキリスト教事業をさせようとしたのではなく、
①キリストご自身を求めていました
②ただその一事を務めていたのです
③そこで「捕えようとして追い求めている」と告白しています
④それは神の前の謙遜の証です。
「キリストを知る」とは、
①キリストとの人格的合一
②十字架体験の共有
③復活にまで達すること
④そしてキリストの品性にまで成長することでありました。
4世紀の神学者アウグスチヌスは「キリスト者の完全」の中で、謙遜であるべきことを強調しています。「自分は完全だなどとは言えないということの自覚」、「完全だ」と思った瞬間、あるいは「誰よりも自分が優れている」と思った瞬間、不完全になってしまうのであると述べています。
私はあえて「段階的完全」であると申し上げます。達し得たところにおける理解であって、また次の段階へ進んで、初歩から再挑戦する。ですから、パウロは「だから達し得たところに従って歩むべきである」(16節)と教えています。
主イエス・キリストが、ゲッセマネの祈りの後、役人たちに捕えられて一晩中裁判を受ける記事があります。(マタイ26:47〜50)ユダは接吻を持ってキリストを売りました。三年半の間共に生活をし、救い主を知っていたはずのユダはキリストご自身を知らなかったのです。結果的に敵対者となってしまいました。私たちが長年にわたって教会生活をしていても、必ずしもキリストご自身を知らないという現実があります。
ひたすらキリストの姿を求め続け、信仰と希望と愛を求め続ける中に、キリスト者の姿があります。ですから有名な第一コリント13章に「このようにいつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。この内で最も大いなるものは愛である」と言っているのではありませんか? キリストを愛する愛において、完成も完全もありえないのです。
自分が過去に、どれほどの偉業を成し遂げたとしても、どのような家柄に育ち、名誉ある称号を得たとしても、それらは「後のもの」であって、忘れ去るべきことです。ただキリストの栄光のみを求めて走り続けようではありませんか。これが私たちの行くべき道であります。
祝福が豊かにありますようにお祈りしております。
小田 彰