「十字架に敵対している者」(ピリピ 3章17〜19節、第二 コリント 11章12〜15節)
ピリピ人への手紙は、キリストによる友情と信頼と愛の言葉で始まりますが、次第に偽善者に対する激しい口調に変わり、この第3章においては、特に割礼を主張するユダヤ教的クリスチャンに対するパウロの徹底的な攻撃の言葉になっています。
そして次の4章には喜びと愛と忍耐と信仰によって祈るべき大切なテーマに展開して終わります。
あたかも交響曲を聞くように4楽章にまとまっているんですね。
さて「キリストの十字架に、敵対して歩いているものが多いからである」(ピリピ3:18)とは、実にショッキングな言葉です。
パウロはさらに感情を込めて「私は彼らのことをしばしばあなた方に話したが、今また涙を流して語る。」と書いています。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書は、イエス・キリストが人類のすべての人に語っています。
富めるものにも貧しきものにも、位のあるものにも、孤独な絶望する人々にも語っています。
キリストの言行録は、大自然のような広さを持っています。
しかし、弟子たちが書いた記録は、教会の中の出来事を取り上げていることが多いのです。
ピリピの手紙のように、愛する教会が真理の原点から離れないようにというひたすらな祈りが、今「パウロの涙」となっているのです。
キリストは救い主である。
その十字架は私たちの救いのシンボルであるが、しかし、割礼を受けなければならない、旧約聖書の律法に従わなければならない。
それによって救いが完成するのである。
そのような古い体質から脱却していない信仰を語るものに対して、パウロは「十字架に敵対して歩いている者」と言ったのです。
十字架上で流された血潮が無駄になってしまうと言う悲しみです。
結局、そういうクリスチャンたちは、地上のことを考えているのです。
「彼らの最後は滅びである。
彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」(ピリピ3:19)
明治以来、日本のキリスト教はある種の知的階層に広がり、学術や文化の中に特殊階級として拡大してきたのではないかと思われます。
そのためにクリスチャンが十字架の道を歩むということよりも、この世における上品な知的な交わりを重んじてきたのではないか。
むしろそれは自分のプライド守る砦となったのではないかと思いますその意味で、私たちは十字架の道を歩いている者たちであることを確認いたしましょう。
NO CROSS,NO CROWN
という言葉がありますが、「十字架なくば冠なし」と訳します。
それは自分の命を削って、奉仕することがなければ、本当の栄冠を得ることはできないという意味です。
しかし、パウロにとっては、さらに強く十字架による救いの他には、何も付け加える事はできない。
それが天国に行く唯一の道であると語りたかったのです。
私たちが偽善者に陥らないために、常に十字架を見上げて参りましょう。
その道を歩んで参りましょう。
今週も祝福がありますようにお祈りしています。
小田 彰