2024.8.11

「我が喜び 又 冠」(ピリピ 4章1〜3節、第二 テサロニケ 2章17〜20節)

 

「だから、私の愛し慕っている兄弟たちよ。私の喜びであり、冠である愛する者たちよ。このように、主にあって、堅く立ちなさい。」(ピリピ4:1)

ピリピ人への手紙の学びも第4章に入ります。パウロがこの教会の人々をいかに愛していたか、またいかに信頼していたかということをこの言葉がよく表しています。「私の喜びであり、冠である愛する者たち」とはなんと重い表現でしょうか。既に何度かお話ししましたように、ユダヤ教的背景を持ったメンバーは「割礼」やその他のモーセの律法を遵守することを救いの条件として提案していました。3章において、パウロは涙を流して、その間違いを指摘しました。

ですから、4章において、「私の喜びである」人々とは、イエス・キリストの十字架の意味をしっかりと理解し、その真理を正しく伝えてくれる信頼できる人々という意味です。彼は今ローマの牢獄の中にいます。いつ自分の命が奪われるか分かりません。福音が正しく宣べ伝えられるかどうかという事は、彼の最大の祈りでした。様々な外的な迫害とともに、教会の中における攻撃を退けながら福音を伝える人々には、今パリで開かれているオリンピックのような厳しい競走に勝利して、月桂冠を受けるような意味があるのでしょう。それが「冠」です。

パウロと同じ立ち位置に立って、あらゆる過ちに対して立ち向かってくださる信頼できる兄弟姉妹に、

「主にあって、堅く立ちなさい」と言っています。「しっかりしてほしい」と言う激励でしょう。ピリピ1:27-28でもっと強く語っていましたね。

「あなた方が一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、かつ、何事についても敵対するものどもに狼狽させられないでいる様子を、聞かせて欲しい。」

 

さて、その直後に和解を必要とする二人の重要な婦人奉仕者のことが書かれています。きっとピリピの手紙を書き始めた時から、この二人の事については、いずれ話さねばならないと胸に秘めていた問題なのでしょう。

「私はユウオデアに勧め、またスントケに勧める。どうか主にあって一つ思いになってほしい。」(ピリピ2:2) 教会がスタートしてから、常に人々に奉仕し、支えとなり、また、パウロの伝道のためにも、細やかな支援を与えてくれた二人のクリスチャン女性が、いつの頃からか、どうしても一致協力ができないという現実をパウロは知っていました。それぞれがクリスチャンとしてしっかりとした信仰を持ち、救いの体験に裏打ちされた良き証人でした。にもかかわらず、気が合わないと言うのです。「真実な協力者よ。あなたにお願いする。この二人の女を助けてあげなさい」とまで言っているのです。こんなに素晴らしい交わりのあるピリピ教会なのに、この二人の争いが、教会の外にまで知られるようになっていたのでしょう。これでは神の栄光を表すことはできない。来週の「いつも喜んでいなさい」と言うエンディングメッセージに入る前に、どうしてもこのことを語っておきたかったのでしょう

私たちの交わりにおいても、個人的なフィーリングが合わない人もいるかもしれません。しかし、互いに謙遜になり、悔い改め、そして心のハーモニーを合わせていかなければ、キリストの証人となることができません。

 

パウロは愛するピリピ教会について細々とした心配をしているようにも見えます。しかし彼は今直接手を下す事は何もできません。一切神に委ねているのです。これまで語った一つ一つの事は彼の祈りであり、その結果は神が最善に成してくださるという信仰に立っていました。

それが4章11節以下の彼の言葉の中に表されています。

「私はどんな境遇にあっても、足ることを学んだ。ありとあらゆる境遇に処する秘訣を得ている。私を強くしてくださる方によって、何事でもすることができる」

これは彼の「超越信仰」です。たくさん心にかかる問題はあります。一つ一つ心配は尽きません。しかし、一切を神に委ね、自分の心は完全なる「神の平安」を得ている。それが伝道者やパウロの晩年の姿です。

実は、今週16日に私は77歳の誕生日を迎え、いわゆる「喜寿」の祝いをすることになっています。しかし何を喜ぶかと言うならば、イエス・キリストに一切を委ねて、生きる恵みが与えられていることを喜ぶべきであります。そこで私にとっても晩年の信仰の姿は「超越信仰」であらねばならないと感じている次第です。

 

兄弟姉妹の心の内にも、一切を超越して神に委ねる信仰の恵みが与えられますようにと祈っております。

 

小田 彰