「主は近い」(ピリピ 4章4〜9節、ヘブル 10章36〜39節)
ピリピ人への手紙は喜びの手紙と言われます。
最も大きな理由は今日のテキストでしょう。
ローマの獄中にありながら、ピリピ教会の人々に何があっても喜びなさいと諭したのです。
また第二に誰に対しても寛容でありなさい。
言葉を変えて言えば愛を持って接しなさいと語っています。
第三にどんなことがあっても祈るんですよ。
思い煩ってはいけませんよと語っています。
「あなた方は、主にあって、いつも喜びなさい。繰り返して言うが喜びなさい。あなた方の寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただことごとに感謝を持って、祈りと願いとを捧げ、あなた方の求めるところを神に申し上げるが良い。」(ピリピ4:4〜6)
「主は近い」は、二つの意味を持っています。
主がいつもそばにいて下さるという意味と、まもなく主が再臨されるという意味ですね。
いずれの場合にも、私たちが喜びに満たされている姿、すべての人に対して愛を持って寛容である姿、どんなに困難なことがあっても、思いわずらわないで、祈っている姿を見ていただきたいものですね。
パウロは、キリストと食事を共にしたり、共に旅をしたりした事はありません。
そっと山に登って祈っておられる姿を見たこともなかったでしょう。
しかし彼は、自分の救い主であるお方について、多くの話を聞いて、イメージを膨らませていたに違いありません。
彼の心の中におられたイエス・キリストのお姿は、
①いつも微笑んでいるお方
②誰に対しても寛容であり、差別なく接していたお方
③そして、どれほど大きな重圧の下に苦しんでいたかは計り知れませんが、いつも祈っていたお方であったのです。
そこで「主にあって」と強調しています。
主との生きた人格的な交わりにおいて、初めてこの喜びも、寛容も、祈りの生活も可能となるのです。
そして思い煩いは取り除かれ、神の平安が心を守ってくれるのです。
「そうすれば、人事では、到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るであろう」(ピリピ4:7)
④イエス・キリストのお姿の最大の特徴は「神の平安」でありました。
絶対的な静寂が彼の存在を包んでいました。
シスター渡辺和子が残した言葉の中に「生きる喜びは、自分自身である喜びなしに味わうことはできないのだ」と語っています。
いつも喜びなさいという事は、自分の今ある存在、境遇、場合によっては不幸と思われる出来事の中にあっても、喜びなさいと言っているのでしょう。
今を感謝することなしに、私たちの喜びも祈りもないのですね。
今週も、あなたの生活の中に、キリストにある喜び、寛容、祈りが満ち溢れますようにお祈りしています。
小田 彰