「どんな境遇にあっても」(ピリピ 4章10〜23節、第二 コリント 12章7〜10節)
ピリピ人への手紙の学びも今回が最終回となりました。
パウロのキリスト論に貫かれ、キリスト愛に満たされ、キリスト信仰の力強さに圧倒される書物でしたね。
既にお話ししましたが、8月のテーマは「超越信仰」です。キリストを愛し、キリストに一生を捧げた一人の伝道者の心は、完全なる静寂と平安の中に保たれていました。
一切のことを承知しながら、またそれが必ずしも自分にとって都合の良い方に動かなくても、全てを超越して神に委ね従っていました。
ローマの獄中という最も困難な環境にありながら、人生の危機を意識させない神に対する信頼に満ちていました。
「私は乏しいから、こういうのではない。私はどんな境遇にあっても足ることを学んだ。」(ピリピ4:11)
ピリピ教会がこぞって、彼を支援するために贈り物を届けましたが、あるいは教会の中に、それに対するパウロの感謝が足りないかのように批判するものがいたかもしれないと言う説があります。
そこで彼は「どんな境遇にあっても足ることを学んだ」と大胆に語りました。
「足ること」とは当時、ギリシャ哲学のストア派の愛用語であったと言われます。意思の力により外的境遇に左右されないで常に自足の境地を保つことを理想としました。しかし、パウロがどんな境遇にあっても満足していたと言い得たのは、13節の御言葉によっています。
「私を強くしてくださる方によって、何事でもすることができる」それは彼の心の内に住むイエス・キリストによる圧倒的な力でした。彼は「貧に処する道を知っており、富に居る道も知っている」と言っていますが、先週もお話ししたキリストのお姿をイメージしているのだと思います。
受難週の日曜日、ロバの子に乗って、エルサレムに入城されたお姿は、王としてのキリストでした。
その金曜日には、十字架上に磔りつけとなり、惨めな死を遂げられました。勝利者と見える王の姿も、人類の贖いのために十字架上に死なれた姿も、いずれもキリストの姿でした。
その意味でパウロ自身も好評を博した時も、ののしられ罵倒され、石打にされた時も変わらない伝道者パウロでした。
この環境に左右されない絶対的な信仰の輝きこそ「超越信仰」の証であります。
そして、彼が願った事は報酬を受けることではなく、人々に祝福を与えることでありました。
奉仕したことの報いを受けることではなく、人々に救いをもたらすことでありました。
この圧倒的なスピリットは、19節の言葉の中によく表されています。
「私の神は、ご自身の栄光の富の中から、あなた方の一切の必要をキリスト・イエスにあって、満たしてくださるであろう。」(ピリピ4:19)
パウロが確信を持って語ることができたメッセージを、今日も世界のすべての人に語っています。
「一切の必要は満たされる」と。
キリスト者とは「真の豊かさ」を知っている人たちです。常に不足を言う人たちではなく、常に満たされた人たちであり、「満足信仰者」ということができるでしょう。
そして、最後の23節に、多分彼自身が筆をとって書いたものと思われますが
「主イエス・キリストの恵みが、あなた方の霊と共にあるように。」と結んでいます。
このキリストの恵みが、今週も、そしてきたるべき、9月もあなたと共にありますようにお祈りいたします。
小田 彰