2025.1.12

「主の道」(マルコ1:1〜8、イザヤ40:1〜8)

 

2025年の標語は「祝福無限」です。

「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」(マルコ1:1)とマルコは書き始めました。ナザレのイエスと言われる人がなさったことを見ると、実にこの方は神の子であり、我らの救い主であります。このことを伝えようとしたのです。

そこであなたの人生に起こる問題、そして一見して不可能と思える現状も、全てイエスの御手の中にお渡しするならば、そしてもし主が祝福してくださるならば、素晴らしい結果を生む。それも無限大の結果を生むことを信じて、新年の標語「祝福無限」といたしましょう。

 

さて、第1章2節から8節までに、バプテスマのヨハネと言われる預言者が登場します。それは旧約聖書に預言されたメシヤの道備えとしてつかわされたと目される人です。福音書、すなわちキリスト伝記者マルコは、このヨハネこそが、イザヤ書に預言された神の使いであると記録しました。

預言者イザヤの書に、「見よ、私は使いを、あなたの先に遣わし、あなたの道を整えさせるであろう。」(これは実際は、マラキ書3章1節の言葉です。)そしてイザヤの言葉を引用して、荒野で呼ばわるものの声がする、「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ」と書いてあるように、バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていた。

彼の風貌は「ラクダの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜とを食物としていた」旧約聖書の預言者エリヤのような人物でした。彼は、来るべきイエスを紹介して言いました。

「私よりも、力のある方が、後からおいでになる。私はかがんで、その靴の紐もとくねうちもない。私は水でバプテスマを授けたが、この方は、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」と。

 

さて、福音書を読む時、出来事がありのまま表現されているのですが、そこからいかなるメッセージを紡ぎ出すかということが聖書を読むものにとって重要です。

来週登場するイエスを紹介するために選ばれた人としてバプテスマのヨハネが存在しました。そしてこの出来事を私たちに伝えるためにマルコが執筆しました。この2人の奉仕なくして、私たちにイエスの姿は伝えられないのです。

 

イエスの紹介者としての神の召命について思いめぐらしていたときに、R.E.ネイバーという人の言葉に出会い、強いショックを受けました。

「あなたは、あなたの時代における、神にとっての機会である。もしあなたが神を拒むならば、神はあなたを通して求めておられた機会を失われることになる。兄弟よ、あなたの賜物を神の御元に持って来なさい。神は、ご自身の祝福をあなたの賜物に加えて、あなたと一つになってわざをなされるのだ」

バプテスマのヨハネが選ばれ、マルコがその召命に従ったように、私もイエスを紹介するために立てられているのだという思いに導かれました。

 

実は、1968年1月13日、人生の目的がわからず、ずっと心の放浪をしていた20歳の私は、旧約聖書ヨシュア記13章33節の言葉で目が開かれたのです。

「ただし、レビの部族には、モーセは何の嗣業(土地)をも与えなかった。イスラエルの神、主がその嗣業だからである。」

私があれやこれやと自分の人生の目標を考えていたにもかかわらず、何も結実しなかった。しかし、それは神に仕えることが私の使命であったからなのだ、と理解したのです。以来57年間神の言葉に仕え、イエス・キリストの道を伝えるために生きて参りました。

 

神はあなたの人生にも、「イエスの紹介者」としての使命を与えておられるのではないかと思います。もしその御声を聞いたなら、即座に従われることが最も幸いなことと思います。それこそ祝福の道です。そして、無限大の収穫を得る道です。

 

神の導きと祝福が豊かにありますようにお祈りしています。

小田 彰