「ヨルダン川で」(マルコ 1:9〜13、マタイ 3:13〜4:11)
前回バプテスマのヨハネが救い主イエスを紹介するために存在したことをお話ししました。今回はイエスご自身のバプテスマについてであります。マルコ福音書は大変シンプルに記録しています。そしてバプテスマとともに40日の間荒野でサタンの試みに遭われたイエスの姿をセットで記録しています。
マタイは3章13節から17節において、バプテスマのヨハネと交わした会話について記録しています。また4章においてサタンに試みられ、空腹のイエスが「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」と言われた有名な記事を編集しています。しかしマルコは単純にその出来事のみを書いているのです。そこから何を読み取るのでしょうか。
その頃、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて聖霊が鳩のように自分に下ってくるのをご覧になった。すると、天から声があった、「あなたは、私の愛する子、私の心にかなうものである」。(マルコ1:9〜11)
イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川を下り、ユダヤの地域の川でヨハネによって行われていた洗礼を受けました。まさに無名の田舎の青年が、バプテスマのヨハネと言う偉大な預言者の前で、跪いて洗礼を受けたのです。
その意味について考察してみましょう。
①一預言者の前に、神の御子が跪いた謙遜の証
②ご自身が神の御心に絶対服従していく態度表明
③すべての人が、罪の悔い改めのバプテスマを受けるための第一の模範として
④徹底した謙遜と服従の魂に下る聖霊の証の為に
イエスの謙遜と服従とは、神の御心に徹底的に従うお姿であり、またこの世にあって人に仕える徹底的な信仰告白でもあります。それは後にゴルゴタの丘の上で十字架にかけられるために来られたイエスの御生涯の意味を象徴しています。
さて最近、新渡戸稲造の妻萬里子夫人の言葉を読みました。新渡部稲造は、内村鑑三と同世代であり、札幌農学校でキリスト教徒となり、国際的にも活躍したクリスチャン教育学者でありました。国連事務次長を歴任し、東京女子大学の初代の学長となったことも有名です。戦前の数少ない国際人であったのですが、若き日に米国で講演したときに、メリー・エルキントンと出会い結婚します。日本名で萬里子といい、生涯を通じて彼を支えました。稲造がカナダで公演中に急逝しましたが、その骨は多磨霊園に葬られました。その頃、友人のガントレット恒子夫人に語った言葉が残っています。
「日本人はいつまで日本にいますかと尋ねます。しかし、私が新渡戸の妻であることを忘れたのでしょうか。私は夫の国の土となるつもりですのに」。
シスター渡辺和子の「置かれたところで咲きなさい」という言葉がありますが、神が置かれたところ、それが幸せなところであれ、困難なところであれ、与えられたところで花咲くのですと言ったのですね。
イエスは、地上の生涯を歩まれ、それが十字架の道へ続くものであったとしても、与えられた使命を果たすために、人に仕え、神の御心に従ったのです。そこに信仰者の道がありますね。
2025年の歩みの中で、選択を迫られることがあるでしょう。新たな仕事に従事したり、あるいは辞したりすることもあるでしょう。人生の去就において、この御言葉を深く心に留めたいと思います。
神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。
小田 彰