「時は満ちた」(マルコ1:14〜20、エペソ1:8〜12)
イエスの宣教開始の宣言は、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」(マルコ1:15)でした。神の時が、イエスの誕生とその生涯を通して成就したということですね。
「時は満ちた」は英訳ではThe time is fulfilled. となっています。
この「満ちる」Fulfillmentに着目して学んでみましょう。
パウロは、この言葉を好んで用いたようですが、エペソ人への手紙にもガラテア人への手紙にも書かれています。
「それは、時の満ちるに及んで、実現されるご計画に他ならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって、一つに帰せしめようとされたのである。」(エペソ1:10)
アダムとイブが罪を犯して以来、人類の救いの計画が始動しました。旧約聖書の記録は、きたるべきメシヤを指し示しています。旧約聖書の最後の預言書はマラキ書ですが、その4章にメシヤの到来が約束されています。
「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、私は預言者エリヤをあなた方に遣わす。」(マラキ4:5)それはバプテスマのヨハネの出現によって成就されました。
「しかし、我が名を恐れる。あなた方には、義の太陽が昇り、その翼には、癒す力を備えている。」(マラキ4:2) この義の太陽こそ、イエス・キリストです。
このマラキ書の預言から、イエスの誕生までは、およそ400年の時間が過ぎました。
そしてついにイエスが誕生され、その備えが完了して、いよいよ福音宣教の舞台に立たれたのです。
「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。」(マルコ1:14)
このヨハネの投獄が、イエスが立ち上がる決断の直接的原因になったのではないかと思われます。
しかし、旧約聖書のアブラハム以来の歴史を顧みて、約2000年の時間が過ぎていく中で、イエスの宣教の開始が、神の御計画によって進められていたのです。
パウロの言葉に戻ってみましょう。神様は救いのご計画を持っておられる。そしてその計画を着々と進めておられるということですね。そしてイエスの宣教と十字架によって、人類の救いの道が完成しました。それから2000年の年月が過ぎましたが、神の国は「教会」という形で完成に向かっています。
Fulfillmentという言葉は、器の中に水を注ぎ込むようなものです。少しずつですが、水かさが増してついに満水になります。満水でないからといって、満ちないわけではありません。注がれ続けているのです。
「天が下のすべての事には季節があり、すべての業には時がある。神のなされる事は皆その時にかなって美しい。」(伝道の書3:1,11)
このソロモンの言葉は、神の時をタイミングのように表現していますが、実は神の御業の実現は着々と備えられ積み重ねられて成就するのだという意味です。
「時」は神の手の中にあります。お互いの人生においても、「神の時」があることを意識する事は幸いです。着々となされるであろう神の御業を信じて、私たちは祈るのです。空を切るような虚しい祈りは存在しません。神の御手の動きを信仰の目によって追っていく注意深い思いが、私たちの祈りの本質です。
今週もあなたのためになされる神のご計画が着々と前進していることを信じて、確信を持って歩まれることをお勧めします。必ず大いなる収穫を得る日が来るでしょう。
小田 彰