2025.2.16

「寂しい所で」(マルコ 1:35〜45、ヘブル 5:7)

 

イエスの力の源は祈りにありました。宣教の働きが始まる前に、荒野の40日の沈黙の祈りがありました。カペナウムにおける限りない人々の癒しの働きの後、彼の心と体の癒しは「寂しい所」での祈りでした。群衆と雑事から離れ、神と共に過ごす時間は、人間的には「寂しい所」でしたが、霊的には最も命に溢れた温かいところでした。

一人の人を癒したことによって、彼が沈黙を守ることができなかったことによって、イエスはもはや町に入ることができませんでした。しばしば人間関係における望まない出来事によって、強いられて祈りの場に導かれることがあります。これもまた幸いな神の導きではないでしょうか。試練こそ、むしろ私たちを神との交わりの「寂しいところ」に導いてくれる大切なチャンスなのです。

 

「朝早く、夜の開けるよほど前に、イエスは起きて、寂しいところへ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1:35)

 

一般的に「寂しい所」は、人が望まない場所です。楽しくない場所です。もてなされたりもてはやされたりしない場所です。実はそこに神との交わりがあります。彼は何のために祈ったのでしょうか。人々の救いの遣わされたものとして、その使命を全うすることができるために祈ったのではないでしょうか!

その祈りは、ガリラヤ地方の人々のためだけではなく、2000年後の私たちのためにも捧げられた祈りであったのです。

 

一人のらい病人が清めを求めたときに、イエスは深く憐れみ、手を伸ばして、彼に触り、「そうしてあげよう。清くなれ」と言われた。(41節)

その結果、彼は直ちに癒され、そして、イエスの沈黙命令にもかかわらず、語り出しました。

 

「しかし、彼は出て行って、自分の身に起こったことを盛んに語り、また言い広め始めたので、イエスはもはや表立っては町に入ることができなくなり、外の寂しい所にとどまっておられた。」(45節)

 

ここに第二の「寂しい所」が示されています。それは望まないことではありましたが、沈黙を守ることができない人によってもたらされた伝道の妨げでした。

神と人との親密な孤独なまでの交わりは、自らの修行ではなく、しばしば人間関係におけるトラブルや、望まない出来事によって強いられて与えられることがあります。イエスは、弟子たちが町の中にいるにもかかわらず、城壁の外で、暗闇の中で静かに時を過ごしていたのです。

 

私たちもまた、試練や病や災害や予期せぬ出来事によって眠れぬ夜を過ごすことがあります。しかしそれはあなたと神との親密な交わりのためであり、祈りの時であります。しばしば追いやられた、孤独こそ、最も素晴らしい祈りの場であります。

 

英国の宣教師て中国に伝道したバウンズという人は次のように言っています。「祈りは死なない。祈った人が世を去った後にも、その祈りは後に残って活動を続ける。祈りによって私たちは、後世まで子孫に尽くすことができる。祈りは人が後の世に残すことができる最大の遺産である」

 

病を癒やし、人を救いに導き、後世にまで残るような力ある働きは、神と我の一対一の祈りの中から与えられます。

2000年前のイエスの祈りがあったからこそ、今私たちは罪が赦され、救われ、また祈りによる奇跡を見ることができるのです。

 

「キリストは、その肉の生活のときには、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとを捧げ、そして、その深い信仰のゆえに聞き入れられたのである。」(ヘブル5:7 )

 

神の祝福がありますように、お祈りいたしております。

小田 彰