2025.2.2

「権威あるもののように」(マルコ1:21〜28、第二テモテ3:14〜4:2)

 

1)イエスの宣教の特徴は、言葉の権威であったとマルコは述べています。まだ30歳の大工出身の預言者ですが、その言葉と言葉の力に人々は圧倒されました。一般的に、権威は、国家的力、軍事力、財力、あるいは学問的権威などを背景として人々を動かす力となります。

しかし、イエスにはそれらのものは何もありませんでした。聖霊の力が、その言葉を通して人々を圧倒したのです。それは単に知的な言葉や人々を納得させる合理的真理であったからではなく、神より注がれた霊力であったのです。

 

「人々は、その教えに驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威あるもののように教えられたからである。」(マルコ1:22)

 

2)汚れた霊につかれたものの登場

 

ちょうどその時、汚れた霊につかれたものが会堂にいて、叫んで言った、「ナザレのイエスよ、あなたは私たちと何の係りがあるのです。私たちを滅ぼしに来られたのですか。あなたはどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。

イエスはこれを叱って、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると汚れた霊は彼を引きつけさせ、大声を上げて、その人から出て行った。(マルコ1:23-26)

 

イエスの権威は、この人の内にいる悪霊の追放によって証明されました。マルコの福音書は、ローマ帝国下のクリスチャンに向けて書かれたと思われます。ローマ社会は軍国主義社会であり、強いものが崇められる社会でした。マルコは、イエス・キリストの権威を強調することにより、彼の力を人々に訴えたのです。

 

3)さて、現代においては、イエスの権威ある言葉はどのように語られているのでしょうか?それは聖書の言葉の中に発揮されるイエスの権威として私たちに迫ってきます。

 

「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」(第二テモテ3:16)

 

世界的に知られているある神学者は、「聖書を読む生活は、浜辺をひたすら歩くような、一見して無味乾燥な作業ですが、時として美しい貝殻を見いだすことがあります。それは心の内に響く神の言葉として受け取られるのです」と言いました。それについては多少の議論があります。では「心に響かない言葉は神の言葉ではないのか」という疑問です。私たちは聖書を誤りなき神の言葉であると信じ受け入れていますが、個人的な問題に対してある御言葉が強く迫ってくるとすれば、それは聖霊の働きです。

 

私は26歳の時、英国に留学しましたが、毎月経済的には祈らなければならない日々を過ごしておりました。しかし、留学の前に広島の大江牧師からいただいた色紙に書かれた言葉「瓶の粉は尽きず、びんの油は絶えない」(列王上17:14)を握り締めて、ひたすら祈りました。常に充分ではありませんでしたが、毎月毎月必要な経費が満たされたのです。それは今日まで50年間変わらない、イエスの権威ある御言葉です。

 

さて、あなたも私も語る言葉に神の権威が裏打ちされているかということが問われています。それは聖霊によって語っているか、聖書の真理を語っているか、自分の信仰の実存をかけて、口先だけではなく語っているかが問われています。もしそうであれば、自分の個人的な問題の解決ばかりではなく、社会における問題においても強い影響力を持ち、また病に対しても超自然的な力を発揮する場合があります。イエスは今カペナウムの会堂において悪霊につかれた男を解放したことを通し、私たちにもその御力を注いでくださることを約束しているのです。

 

今週も信仰が空をつくような惰性的なものではなく、人を生かし、救い、問題を解決し、見えない神の国の拡大に寄与するような言葉を発するものでありたいと思います。

イエスの祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。

小田 彰