2025.2.9

「シモンのしゅうとめ」(マルコ1:29〜34、イザヤ63:7〜9)

 

 先週カペナウムのシナゴグ(ユダヤ教会堂)で、イエスが権威をもっ、て語られた記事を読みました。時は安息日です。イエスはガリラヤ湖の漁師のヤコブとヨハネとを連れて、先に帰ったシモンとアンデレの家に行きました。シモンは後のペテロであり、アンデレはその弟でした。彼の家はカペナウムの漁師の中でも指導的な立場であったので、大きな建物でした。そこでシモンのしゅうとめの病のことをイエスは聞かれたのです。安息日ですから、医者は呼んでも来ません。相当高熱にうなされていたのではないかと想像されます。

 

「ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床についていたので、人々は早速、そのことをイエスに知らせた。イエスは近寄り、その手をとって起こされると、熱が引き、女は彼らをもてなした」(マルコ1:30.31)

 

同じ情景をマタイが記録しています。「そこでその手に触られると、熱が引いた。そして、女は起き上がって、イエスをもてなした。」(マタイ8:15)

 

この部分について、今井和登牧師が次のように語っています。

「仰ぎ見る彼女の目は、じっと見つめるイエスの目に、彼女の病を全て引き受けてくださるお方の真実を読み取ったのだ。」

 

既に学びましたが、40日40夜の荒野の試練のときには旧約聖書の言葉をもってサタンと激しく戦いました。先週、ユダヤ教の礼拝堂においては威厳をもって神の言葉を語りました。しかし、今一般の家庭の台所のようなところに行って、病める夫人に目を注いだのです。イエスはいかなる場所にあっても、己の立場やプライドなどを一切見せることなく、即座に福音を必要とする方に接しました。

私の恩師中田羽後は、「水のようになれ」と良く言われました。水は命を持っていますが、形状にこだわりません。雨にもなり、川にもなり、蛇口からも流れ、コップの中にも入り、涙にもなる。いかなる時にも求められる形に変わりながら、命を与えていきます。

私たち教師と言われるような者たちは、つい自分の立場や、あるいは求められる条件によってしか語ることができません。

イエスはまことにご自身の命を自由自在に与えられました。それによってシモンのしゅうとめは癒され、早速接待のために力を振いました。なんと言う喜びでしょうか?

 

この日は安息日でしたが、日没とともに様々な規制から解放されましたので、この家に町中の人たちが集まってきました。「こうして町中のものが戸口に集まった」と書かれています。午前中の悪霊に憑かれた男の解放、シモンのしゅうとめの癒やしのニュースを聞いた人々は、一斉に集まってきたのです。

 

スコットランドの聖書学者Graham Scroggieは一言で次のように語っています。

“There are many sicknesses, but only one Healer.”

病めるものは、限りなく迫ってきました。しかし、癒し主はイエス様お一人でした。

 

今日病院は病人で満ちています。世界は権力と経済と民族問題で混沌としています。私たちの人生も限りない問題を抱えて生きています。いろいろなアドバイザーもいるでしょう。たくさんの医者もいるでしょう。しかし本当に魂の救いと癒しを与えるお方はイエス・キリストのみです。

 

「まことに、彼は、我々の病を負い、我々の悲しみを担った。」(イザヤ53:4)

「彼らのすべての悩みの時、主も悩まれて、その御前の使いをもって、彼らを救い、その愛と哀れみとによって、彼らを贖われた。」(イザヤ63:9)

 

まことの医者である。イエス・キリストは、私たちを癒される時、その病を自らの体で受け止められたのです。それは後の十字架上の苦しみに帰結します。

 

今週私たちが直面する悩み、苦しみの時、イエス様ご自身が共に苦しんでいてくださることを覚えましょう。そこに癒しがあります。

小田 彰