2025.3.16

「安息日の主」(マルコ 2:23〜28、イザヤ 58:13〜14)

 

先週は断食論争でした。本当の祈りの形について学びました。今週は安息日論争です。福音書の世界において、ユダヤ教の人たちは安息日を厳守しました。それは正しいことであり、神の御心であったのでしょうが、長い間に形式化しておりました。イエスのメッセージは形式化された偽善的な義に、いのちの息吹、すなわち聖霊を吹き込んで、本当の神の御心を実現しようとするものでした。

このユダヤの安息日論争と同じように、日本の社会にもいろいろしきたりがあって、そのしきたりが人を苦しめ、喜びや躍動感を失わせてしまうことがあります。イエスはご自身が神の御子であるが故に、大胆に真理を語られたのです。

 

ある安息日に、イエスは麦畑の中を通っていかれた。その時弟子たちが歩きながら穂を摘み始めた。するとパリサイ人たちがイエスに言った、「一体彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。そこで彼らに言われた。「あなた方はダビデとその供の者たちとが、食物がなくて飢えた時、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。」

(マルコ2:23-25)(サムエル記上21:1-6参照)

 

一般的に、安息日にしてはならないことが39項目あると言われています。安息日の道のりと言った時、約1050メートルです。それ以上移動してはならないと規定されていたのです。もちろん畑仕事をしてはならないと言われていましたから、弟子たちが、麦の穂をつまんで取ったことを「仕事をした」と非難されたのです。

ここでイエスは弟子たちのした行動を擁護しながら、大切なメッセージを伝えました。

「安息日は、人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」(マルコ2:27.28)。

安息日は、モーセの十戒の中で、第四戒に書かれています。それは神が7日目に天地創造の業を休まれたので、私たちにも休むようにと言う命令です(出エジプト記20:8-11)。 人は週に1日肉体的に休憩するとともに、神との交わりを求め、祈りの時を持つことによって、霊肉共にリフレッシュすることを求められているのです。それは私たちの健康のためなのですが、その日に病人も癒してはいけないというような事は全くナンセンスなことです。しかし、とかく私たちもそのような発言をすることがないでしょうか。

 

イエスは「安息日にもまた主なのである」と言われ、人の幸せのために決断する権限は私にあると言われたのです。その意味は、

①すべての人を永遠の安息に導くものはイエス(神)のみである。

②安息日になすべきことを決定するのはイエス(神)のみである。

 

さて、今日私たちは日曜日に礼拝を持っております。ローマ帝国下で4世紀にコンスタンティヌス大帝が日曜を休日としたことが大きな意味を持っております。迫害を続けてきたローマ帝国がキリスト教国と変わった時に1週間の過ごし方を変えたのです。それは単にユダヤ教の安息日を日曜日に変えたと言うわけではありません。今日の御言葉が示しているように、イエス・キリストの教えは、いつでも、24時間神を礼拝し、祈りを捧げるべきであると語っています。

日曜日は、主の日と言われ、週の第1日目であり、イエスが復活された日でありました。また聖霊が降臨したペンテコステも、週の初めの日でありました。そこで週の第1日目を休日とし、礼拝を守るようになったのです。それは「感謝の祭儀」として、聖餐式を行い、祈りと賛美を捧げ、礼拝を持つ日となりました。しかしそれを行わないものを罰するような律法ではありません。喜びと感謝を持って集まる日なのです。

初代教会の人々は(使徒行伝2:44-47)、共に集まる時、①励ましあい、②学び合い、③戒め合い、④捧げ合い、⑤愛しあったのです。

古い律法主義、形式主義から解放され、自由に祈り、賛美し、支え合い、神の愛の共同体を作り上げていく事は、私たちに与えられた素晴らしい使命なのです。

今週も聖日厳守を恵みとし、喜びとして過ごしたいと思います。

祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。

小田 彰