「罪人を招くために」(マルコ 2:13〜17、イザヤ 55:6〜9)
いよいよガリラヤ伝道が始まります。新約聖書時代のイスラエルの東北に当たります。その中心はガリラヤ湖畔であり、その北西に位置するカペナウムが中心の都市であり、イエスの伝道の拠点でありました。
ここで語られた二つの言葉を取り上げてお話しいたしましょう。
①アルパヨの子レビが収税所に座っているのをご覧になって、「私に従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。(マルコ2:14)
カぺナウムには、多くの旅行者が集まってきました。ガリラヤ湖から船で上がってくる人々もありました。そこで今日の税関のような通行税を取り立てる収税所があったのです。そこのリーダーと思われる人物が、アルパヨ子のレビでした。彼は多分深い求道心を持っていて、イエスの話は聞いていたのでしょう。しかし、自分の役人としての職を捨ててまで従っていこうと思ったかどうかは分かりません。先に選ばれたシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネはいずれも漁師でした。いつでもその仕事に戻ることができました。しかし、この役人の職を捨てるならば、再び戻ることはできなかったのです。
また、収税人は税金をローマ帝国に収めたので、売国奴とみなされ、罪人と言われました。しかし彼の心にイエスは語りかけました。「私に従って来なさい」、すると即座に応答したのです。イエスは社会的に蔑視された人を弟子としてお召しになりました。
「あなたが方は、主にお会いすることができるうちに、主を訪ねよ。近くおられるうちに、呼び求めよ。…我が思いは、あなた方の思いとは異なり、わが道は、あなた方の道とは異なっていると主は言われる。」(イザヤ55:6,8)
神の採用基準はこの世の基準とは異なります。自ら罪人と言われていることを知っている人を、むしろ大切な人として選ばれたのです。
②イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。私が来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)
収税人レビは、マタイによる福音書9章9節におけるマタイのことではないかと思われます。そこでレビはイエスと弟子たち4人を自宅に招き、また自分の職場の仲間たちや親しい友達を招いて夕食会をしました。しかし同時に大勢の人々に混じって、パリサイ派の律法学者たちもその席に集まっていたようです。その人数は相当な人数であり、レビの家も相当広い建物ではなかったかと思われます。当時の敬虔なイスラエルの家庭からすれば、まさに罪人の大晩餐会であったと思われたでしょう。そこで律法学者たちは、
「なぜ彼は収税人や罪人などと食事を共にするのか」と言ったのです。
モーセの律法を守り、自ら教師と思う人々は、「自分たちは罪を犯していない」と考えました。この人々は「まさに罪人の集まりだ」とみなしたのです。しかしイエスの目は異なるアングルから見ていました。
自分を義とする者こそ罪人であり、自分を罪人と認める人こそ神に赦されている人なのです。
イエスの信仰と、宣教の目的は「罪人の友となること」でした。そのために「私は十字架にかかるのだ」と宣言したのです。
イエスを迫害し、十字架にかけた国会議員であったパウロは、「自分が敵対者であったときでさえ、私のために十字架で血を流して下さいました」と感謝を込めて、次のように語りました。
「しかし、まだ罪人であった時、私たちのためにキリストが死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛を示されたのである」(ローマ5:8)
この愛によって、レビは選ばれ、パウロは赦され、私たちは救われたのです。パウロはさらに逆説的真理を語っています。
「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ち溢れた。」(ローマ5:20)
新聖歌376「いかに汚れたる人の心をも」の折り返しに、
♪罪汚れは いや増すとも
主の恵みも またいや増すなり♪
この大いなる神の愛の価値基準によって新しい交わりを形成していきましょう。
神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。
小田 彰