2025.3.23

「小舟を用意して」(マルコ3:1〜12、伝道の書11:1〜6)

 

ガリラヤ湖畔カペナウムから始まったイエスの宣教は、たちまち拡大して多くの人々の関心を呼びました。そのために、南のエルサレムの方からも、ヨルダン川の反対側の地域からも、地中海に面したツロやシドンからも、人々が集まってきました。ガリラヤ湖畔に集まった人々は、数千にもなっていたかもしれません。彼らの多くは病気を治してもらいたいと願って、イエスに触ろうとして迫ってきたのです。

 

「イエスは、群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。それは多くの人を癒されたので、病苦に悩むものは、皆イエスに触ろうとして押し寄せてきたからである。」(マルコ3:9)

 

ここで「小舟を用意しておけ」と命じられたイエス様のお気持ちは何でもあったのかということを思いめぐらしてみたいと思います。群衆に押されて、次第に水際にまで来ていたのでしょう。また、人々が将棋倒しになるような事故が起きないようにとの願いもあったでしょう。緊急事態に備えて、ボートを用意しておいて、群衆から離れようとしたことは確かです。福音書の記事の中に度々イエスは群衆あるいは民衆から離れようとしたことが書かれています。

 

イエスが人々の悩みや苦しみをご覧になって、彼らを愛し、病を癒してあげたいという思いは無限であったと思います。しかし同時に時間的にも体力的にも、あまりにも多くの人々に対して奉仕をするのには限界があったこともお気づきになっていたことでしょう。

二つのポイントからボートを用意したイエス様のお気持ちを推測します。

①病気の癒しはできるだけしたいが、イエスの使命は魂の救いを伝えること。

②旧約聖書の預言の成就として生きる神の御子の生涯は、ガリラヤ湖畔で事故死するわけにはいかない。まもなくエルサレムで十字架にかかる時まで生き延びなければならない。

「神の使命を果たすまでは生きなければならない」という思いではなかったでしょうか。

 

善意をもって、人に奉仕しようとするものは、しばしばそのような葛藤を経験することがあります。

シスター渡辺和子先生は、含蓄の深い言葉を残しています。

「一時的な善でなくて、将来的な善が選べる人になること。刹那的な善でなくて、人格的な善が選べる人になること。」それが教育の1つの役割であると言っています。またさらに、

「本当に謙遜な人というのは、持っているものを持っていますと言い、持っていないものを持っていませんと、素直に言うことのできる人であり、それができたら、どんなに自由で、おおらかでいることができるだろうかと思います」と。

 

イエスは神の子としての無限の力を持っておられましたが、人間イエスとして地上でお働きになるときに「有限者」であることを知っておられました。ですから、いつでも身を守るために群衆から離れるように「小舟を用意すること」を命じられたのです。

 

私たちに与えられている使命が何であるか。どこまでなすべきであり、どこまで神の御心を優先すべきであるか。この葛藤の中に、真の祈りがあるのではないでしょうか。それを導いてくださるのが聖霊のお働きです。

今週も神のみ旨に従い、果たすべき責任を果たし、週末に大きな感謝を捧げることができますようにと祈っております。

小田 彰