「新しい皮袋に」(マルコ 2:18〜22、イザヤ 58:4〜11)
先週の、取税人レビ(マタイ)の屋敷における会食会での出来事です。
そこには取税人仲間や異邦人たちもたくさんいました。
その中に混じっていたパリサイ派の学者たちは、イエスの言動の揚げ足を取るべく欠点を探していました。
(A)ここにいわゆる断食論争が登場します。
そこで、人々が来て、イエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとは、断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」(マルコ2:18)。
①ユダヤの人々は、少なくとも年に一度大贖罪日(レビ記16:29)には断食をしました。
パリサイ人は、週に2日は断食をしていたと言われ、断食の季節に盛大な食事会をするなどはもってのほかとイエスの弟子たちを責めました。
②断食は祈りの姿です。
そこでは形が問題なのではなく、本質が問われています。
「見よ、あなた方の断食するのは、ただ争いと、いさかいのため、また悪のこぶしをもって、人を打つためだ。」
「私が選ぶところの断食は、悪の縄をほどき、くびきの紐を解き、しえたげられるものを放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどのことではないか。」(イザヤ58:4〜6)
イザヤは自分の利益のために、また敵を滅ぼすために熱心に祈る断食を全く無意味なこととしています。
断食の本質は牢獄に捕えられたものを解放し、しえたげたげられる者に自由を与えるような愛と解放の祈りであるべきだと語り、イエスもまたそのような断食の祈りを求めていました。
イエスはまた、断食の姿によって、自分をより高く見せようとする偽善者を厳しく糾弾しました(マタイ6:16-18)
(B)新旧論争
「だから、新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるべきである」(マルコ2:22) 。
ぶどう酒は発酵しますから、古い皮袋では裂けてしまいます。
今イエス・キリストの福音は新しいぶどう酒として注がれています。
古いユダヤ教の律法主義ではなく、罪の悔い改めと赦しによる福音主義によって広められようとしていました。
それはまた同時に、私たちの内に宿る、古い性質、古い価値観、古い人生の目的、古い人間関係、古い罪の性質から解放されて、新しい神の子供としての生き方に造り変えられることを意味しています。
パウロはこのメッセージを大切に伝えました。
「あなた方は、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主の形に従って、新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。
」(コロサイ3:9、10)
さて、私たちは、日々の生活の中で形式的に間違ってなければ正しいと言うような自己中心的なものの考え方を捨てなければなりません。
神が求めておられる本質的な祈りの心を持って生きるべきです。
聖書の御言葉にどこまでも従っていこうとする信仰が、あなたの祈りを天に届けてくださるでしょう。
今週も祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。
小田 彰